- 今年の年賀ハガキは和紙プリントにしてみた
- 2016.01.03 Sunday
- category: 写真のツール
-
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
昨年は、仕事も忙しくなりこまめな撮影にはほとんど行けなかったのですが、長い休みにはちゃんと旅をしてきました。とはいえ、書きかけのブログシリーズもあったりして、楽しみにしていた読者の方には申し訳ないことをしました。もう少し時間ができたら完結させて、長崎の世界遺産候補を巡る旅について書きたいと思います。遅くとも候補が確定に変わる6月頃までには、、、なんとか(汗)
さて、この年末は早めに冬休みに入ったもので、かなり早くに年賀状を用意しました。
その年賀状ですが、毎年、その年の最もお気に入りの一枚を自宅プリントで作っています。
今年は、10月末に宮城の鳴子峡に行った途中で立ち寄った蔵王の三階滝を選びました(↓)。
この撮影は霧が晴れかかった時に写したので全体に低コントラストな光景でした。
その美しさを表現するのに、いつもの絹目用紙では鮮やかすぎると考えて、いくつかハガキサイズの和紙を買ってみました。
最終的に使ったのは「伊勢和紙Photo」の「雪色」の滑面です(↓)。
(以下の写真は全て実際の印刷をスキャンしたものです。スキャンでは実際の質感や色合いを十分表現できていないので、実物を見ながら書いているコメントとは若干印象が異なるかもしれません。あなたが和紙プリントに挑戦される場合には、コメントの方を参考にされる方が良いかもしれません。)
和紙は全体的に低コントラストに仕上がりますが、この雪色の滑面はなめらかな表面仕上げになっていて、ある程度の微細な表現も可能で、緻密な写真に向くように思いました。なお、伊勢和紙Photoは両面印刷が可能で、表面と裏面で異なる仕上がりになります。
参考までに他に試したいくつかの紙を紹介しましょう。
まずは、雪色の粗面です。コントラストは滑面とあまり変わりませんが、黒側がやや締まります。
次は、同じ「伊勢和紙Photo」の「優美」の滑面です。
「雪色」とそれほどの印象の差はないのですが、「ごくわずかに」光沢があります。
優美の粗面は、雪色の粗面よりも「わずかに」黒が締まります。ホントーにわずかな差で比較検討しなければ気付かない程度の差ですが。
さらに同じ「伊勢和紙Photo」の「芭蕉」の滑面です。
芭蕉はやや褐色が入っていて、色がやや濃くなり、さらに柔らかくなります。例によってわずかですが。そして優美よりもさらに光沢があります。
芭蕉の粗面は、優美の粗面よりもさらに黒が締まります。
同じ和紙でも今度は「プリンタ対応厚漉和紙 和み紙(白)」です。
和紙らしい(?)繊維の筋が特徴です。個人的には好みの表現だったのですが、ハガキに出すにはちょっと薄いのが難点でしょうか。。。
ついでに和紙以外とも比較してみましょう。
まずはマット紙です。マット紙は光沢紙や絹目用紙に比べるとコントラストが低下しますが、和紙よりはずっと微細な表現ができますね。でも、これだと、今回の意図に合わないので却下。
最後に絹目調です。マットに比べてもさらに黒が締まり、コントラストが上がっていることが分かるでしょう。
奥の深いプリントの世界ですが、作品世界をより意図に忠実に表現するためにはプリントにもこだわりたいところですね。
2016/1/2時点で、伊勢和紙のハガキサイズは(私が自由にリンクを貼れる)amazonでは取り扱いがないようなので、和み紙などへのリンクを貼っておきましょうか。。。
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- 「手作りうちわ」を「キット」と「自分の写真」で作ってみた
- 2015.08.02 Sunday
- category: 写真のツール
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8月に入って、連日の35度超えはなかなかツライですね。。。
というわけで、仕事が少し片付いたので、気分転換も兼ねて、ずいぶん前に購入した「竹のうちわ手作りキット」による自作(?)うちわ作成に挑戦してみました。
使ったのはサンワサプライから販売しているコレ(↓)
1. 入っている物を確認
うちわの他、プリンタで印刷可能なインクジェット用のシールシートが2枚、そして作成方法の解説が入っています。シンプルですね。
2.印刷する2枚の絵・写真を用意
印刷する写真を過去の作品からチョイスしてみました。今回使ったのは、和風かつ絵柄風の2枚、富士山と日本庭園。これを表と裏にそれぞれ使いました。
印刷した状態で並べてみるとこんな感じ。
3.線に沿ってカット
線に沿ってハサミでていねいにカットしていきます。
4.貼り合わせ
最初に、うちわとシールの下のラインを合わせて、ずれないように片手で押さえます。
シールの裏には片側だけ剥がせるように切り込みが入っているので、さきほどの位置がずれないようにおさえながら、シールを剥がしつつ、少しずつ手で押さえて貼り付けていきます。
片側が張り終わったら、今度は逆側のシールを剥がして、同じように貼り付けていきます。
最後に、うちわにしっかりシールがなじむように、手ですりこんでいきます。
5.シール余りをカット
シールは少し大きめになっているので、うちわからはみ出した部分をハサミで切っていきます。
6.完成
完成しました!これが表。
これが裏。
印刷するものさえ決まっていれば30分前後で完成します。
印刷するものを持っていない人は、サンワサプライのサイトにある(URLは商品に記載)ので、そこからダウンロードして印刷することもできます。
7.もう一本(というか上の前に作ったやつ)
実は、今回のを作る前の日に別バージョンを作っていたんです。
使った写真は、昨年の梅雨直前に妻と行った屋久島旅行の時の。
横に広がりのあるものは、うちわの幅が少し狭めなので、はみ出てしまい、ちょっと残念な感じになりますね。。。このうちわには、いわゆる日の丸構図の写真の方が向く気がします。
妻とのツーショット記念写真ですが、マット紙風なので、太陽光やストロボでキレイに写っていない人物は印刷が不鮮明になります。。。ただ、家族の記念にはそうした点を考慮しても作る価値はあるでしょう。妻は旅行を思い出して喜んでいました。
以上が今年の私の夏の工作でした。
一夏の記念にあなたも一本いかが?
。。。なんで、夏休みの工作じゃなくて、夏の工作なのかって?いいところに気がつきましたね。それはね、お盆明けの初日に仕事の〆切を設定されてしまったので、お盆をお休みにできなくなったためです(涙)。
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- 対馬観光日記:日本の歴史を追体験する旅・4日目
- 2015.05.03 Sunday
- category: 撮影手記
-
前回「3日目」はこちらからどうぞ。
対馬旅行4日目です。
前日までに一応島内一周したことになるので、ここからは行けるだけ行こう的な感じになります。4日目のテーマは宗教、でしょうか。
永泉寺(隠れキリシタン)
まずは隠れキリシタンの名残を求めて、豆酘の永泉寺にやってきました。この像はキリスト像と考えられています。
この像はマリア像と考えられています。
長崎は江戸時代に隠れキリシタンが多かったこともあり、明治以降の宗教自由化によりカトリックに戻る人が多かった土地柄です。そのためカトリック信徒の日本全国平均はわずか0.34%(2013年末の集計時)にもかかわらず、長崎県だけで見ると、4.3%(同)となんと全国平均の10倍を超える密度です。長崎県の中でも隠れキリシタンの地だった集落では現在でも9割以上がカトリック信徒という場所もあるくらい、長崎県はカトリックが多いのです。ちなみにカトリックに戻らなかった独自のカクレキリシタンという宗教が長崎では今でも存在しています(潜伏が250年と長きにわたったため独自に発展したためと考えられています)。
ところが、そうした背景がある中で対馬にはカトリック教会がないのです。これだけ人口がいて、他の新興の宗派の教会がある中で、最も古くから布教していたカトリック教会がない理由はなぜなのか、疑問はつきません。対馬では、鎌倉時代から宗家が統治していたのですが、その19代島主の宗 義智(そう よしとし)が戦国武将・小西行長の娘マリア(洗礼名)と結婚し、自らもダリオという洗礼名を持つキリシタン大名でした。しかし、その後、豊臣秀吉による1587年のバテレン追放令からの一連のキリスト教弾圧もあって、関ヶ原の戦いで負けた西軍に与した義父の小西行長が徳川家康に処刑されるにいたり、その累が及ばないようにマリアを離縁し、その後、自らは棄教したそうです。
とはいえ、この像が示すように、隠れキリシタンはある程度潜伏に成功もしていたようで、なぜその後、他の長崎の地域のように復活できなかったのか。少し本土から遠すぎて、大浦天主堂での「信徒発見」から始まるカトリック復興の情報が伝わらなかったのでしょうか、ね。本土よりも韓国の方が近いですからね、、、。
八丁角(天道信仰の聖地)
こちらが八丁角の鳥居。
こちらが八丁角。
八丁角とは、天道信仰における天道法師の墓であり、禁忌(タブー)の地とされていた場所のことです。天道信仰とは天道法師とその母を祀る対馬独自の信仰です。天道法師は、AD685年に、その母の体内に太陽が入って産まれたと言われ、AD718年に空中飛行により病気で苦しむ元正天皇の元へ行き病気を治したという伝説が残されています。これは仏教に取り込むための話ともされていて、実はそれ以前にも自然信仰(対馬の祖霊=わだつみ=天道神=太陽神)として天道信仰は存在したという説もあります。いずれにしてもかなり古い話には違いがありません。
世界には同じような伝説が多く存在するそうなので、珍しいことではないのかもしれませんが、キリストとマリアの話に似ていると思う人は少なくないことでしょう。
多久頭魂神社(天道信仰の遥拝所)
多久頭魂神社の鳥居です。多久頭魂神社は、一説には、天道信仰の禁足の聖山であった竜良山(天道山)を拝むための遥拝所として建てられたとされていますが、正確な創建の時期や事情は不明です。本来の祭神は対馬特有の神である多久頭神であり、現在は天照大神などを祀っています。少なくとも続日本後紀にある、837年に多久頭神を無位から従五位下に叙する旨の記載が残っていることから、それより以前からあるのは間違いありません。
多久頭魂神社の梵鐘です。1344年に制作された国指定の重要文化財です。
多久頭魂神社の山門です。
多久頭魂神社の本殿です。中に入って拝むこともできます。
なお、2012年10月に、この多久頭魂神社が所有する長崎県指定文化財の「大蔵経」が、海神神社と観音寺の仏像各一体と一緒に韓国人グループにより盗まれました(対馬仏像盗難事件)。対馬仏像盗難事件の顛末については今さらという気もしますが、一応書いておくことにしましょう。要約すれば韓国窃盗団が売りさばこうとしたところを逮捕されましたが、韓国側では元々仏像は朝鮮にあったもので、それが倭寇(AD1400〜1500年の頃)または豊臣秀吉(AD1600年の頃)に朝鮮から持ち去られたものなので、日本に返還する必要はない、というものです。ですがさらに調べてみると、そもそも秀吉の朝鮮出兵の前に、韓国ドラマで人気の李氏朝鮮は激しい仏教弾圧を繰り返し、特に太宗(在位1400〜1418年)の時代は過酷だったとされています。これらの弾圧の結果、当初1万以上もあった寺院は秀吉の朝鮮出兵時にはわずか36まで減りました。そして、その弾圧から仏像の破壊を避けるためにこれらが対馬に保護された、という説があります。もしもこれらが日本本土に来ていたら朝鮮出兵の戦利品かなと思うのですが、政治の中心地から遠い対馬に置かれたのですから、持ち去ったというよりは保護したとする方が時代背景的にしっくりきます。すでに書いたように、なにしろ対馬は日本で最初に仏教教典が伝わった仏教ゆかりの地ですからね。それと、1400〜1500年頃には対馬などからの通交の拠点が朝鮮半島にあったことから、対馬に帰国する際に駐在していた人が持って帰った可能性もあります。朝鮮半島での弾圧に比べて、当時の日本は仏教を保護していましたからね。
本殿の奥にある、対馬最大の大楠です。高さ30m、幹周りが7mあるそうです。
※画像をクリックすると拡大できます。
その大楠を逆光で太陽を入れて撮影してみました。太陽の光をいっぱいに受けてエネルギーを充電していることを表現するために、あえてハレーションを切らずに画面全体に派手に入るように構図してみました。
阿麻氏留神社(日本の神の起源?)
対馬の北側と南側を結ぶ中間地点の小船越の道路脇にチョンと建つのが阿麻氏留神社(あまてるじんじゃ)です。本殿が階段の上に建つので、道路からは見えません。それが調べてみると、「あまてる」は「あまてらす」の元になった言葉で、天照國照彦火明命(天照大神)のこと。阿麻氏留は、日照のことですから、太陽信仰である天道法師に繋がるキーワードですね。天道がまた出てきましたよ。天照大神の起源については諸説あるようですが、この対馬の阿麻氏留もその有力候補の一角なのです。663年に日本・百済連合が、唐・新羅連合に白村江の戦いで完敗したため、日本(大和朝廷)は朝鮮半島への足がかりを失い、逆に唐からの本土侵攻を恐れました。それで、538年の伝来以来、聖徳太子が神と定めた仏を捨てて(汗)、新たに天照大神を神とすることで新たな霊力を得ようとしたとする説があるようです。そう考えると、どちらも対馬が無関係ではありませんから、やっぱりこの阿麻氏留が天照の元になったのかもしれない、とも思えてきます。実際のところ、白村江の戦いに破れてからすぐに、この対馬に古代の山城・金田城(かなたのき)を築いています(後で出て来ますよ)。ここまで条件が揃っていて無関係ってことはさすがにないですよね。んー、歴史ロマン。
小船越
小船越(こふなこし)の西漕手(にしのこいで)です。小船越は地名の通り、東西の海路を結ぶ陸地で、小船を担いで東西を渡ったことに由来します。この場合、東は日本、西は朝鮮。日本が唐などの大陸と交易をするための中継地だったのです。大船の場合は、ここで乗り換えることになります。対馬には海の神様を祀る神社が多いのですが、この大航海の安全を祈願するためと考えられています。
※画像をクリックすると拡大できます。
その西漕手にアオサギが居たので、しばらく被写体になってもらいました。和紙印刷用のモノクロバージョンも同時に創作してみたのですが、いつか日の目を見る日が来るでしょうか。
梅林寺(日本への仏教伝来の地)
それで、この梅林寺も小船越にある小さな寺の一つに過ぎない、、、ということはなく、実はこの寺は、朝鮮(百済)から仏像や教典が日本(大和朝廷)に伝わる前に、一時的にその仏像や教典を安置したお堂がその由来なのです。その仏像や教典は538年に日本に伝わったと史実ではされています。ちなみに、この時の仏像は、聖徳太子の時代に信濃国司の従者・本田善光によって長野県の善光寺に安置されています。秘仏とされて一般公開はされていないので見ることはできませんが(レプリカは見ることができます)。
住吉神社
住吉神社の本殿です。住吉神社の起源は、AD200年に神功皇后が三韓征伐を指揮した帰りに、ここに海神を祀って、応神天皇を産んだという伝説に由来します。三韓征伐とは、神功皇后が指揮して新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争のことです。なんと、お腹に子供(応神天皇)を身ごもったまま海を渡って出兵したそうです。なお、名前は一緒ですが、日本全国にある住吉神社はここが起源というわけではないとのこと。
この神社は海神を祀っているだけあって、海に面した鳥居があるんですよ。海に階段が伸びているので、昔は海側から船でやってきてお参りしていたのかもしれませんね。
豊玉姫伝説と真珠の浜
和多都美神社のかつて一部であったとされている「玉の井」です。神話の時代、豊玉彦尊には一男二女の神がいて、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・玉依姫命と言いました。ある時、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと/山幸彦)は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に3年滞在する間に豊玉姫命を娶り妻としたと伝わっています。そして、この時の彦火々出見尊と豊玉姫命の出会いの場所が、玉の井だったと古事記では語られています。豊玉姫命がこの時に身ごもったのが彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)で、日本の初代天皇とされる神武天皇の父にあたります。日本書記の記載によれば、これらは紀元前700年頃の設定ということになっていますが、ここまで古くなるとさすがに根拠が怪しいので歴史じゃなくて神話ですね。
※画像をクリックすると拡大できます。
対馬は真珠の産地でもあるのですが、それも豊玉姫の伝説に由来があります。真珠は豊玉姫の涙とも、豊玉姫自身が真珠が神格化されたものともされています。どちらにしても複雑な海岸線を持つ対馬は古くから良質な真珠が採れる場所だったのは確かなようです。
烏帽子岳から望む浅茅湾
※画像をクリックすると拡大できます。
玉の井のある和多都美神社からさらに奥に車で走ると、烏帽子岳の展望台に行くことができます。烏帽子岳からはさっきまでいた真珠の浜なども見えます。この日は、イイ感じの夕焼けになり、一日のシメとして最高の終わり方となりました。
対馬編はまだ続きますよ(笑)
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- 対馬観光日記:日本の歴史を追体験する旅・3日目
- 2015.05.03 Sunday
- category: 撮影手記
-
前回「2日目」はこちらからどうぞ。
さて、対馬旅行3日目です。
今日も朝早〜〜くから撮影です。
小姓島の朝景
※この画像はクリックすると拡大できます。
この日の最初は小姓島から始まります。もちろん!朝景狙いです。私は夜から朝に変わるこの時間が大好きです。まだ夜が明けないうちに現地に到着。なんとなくこの辺なら絵になるかなと思って、あらかじめ地図上にチェックしてありました。宿のある厳原から行ける現実的な距離でもありますしね(汗)。
ここで撮影していると、干満の差で打ち上げられるエモノ狙いのお爺さんに声をかけられました。何でも、昨日、ここで2ハイのイカを「拾った」とか。この話を聞いて急激にイカを食べたくなってしまいました。ちなみにこの願いは次の日に叶います。この日の夜はイカを刺身にして売っているスーパーを見つけられなかったのですが、翌日に見つけました。いやー、うまかった。対馬ではイカをクルクル回る干し機で干しているご家庭が多いのですが、対馬はイカの名産地なんですよ。ちなみに、この小姓島には弥生時代の遺跡があります。見学はできませんが。
ロシア将兵上陸地
トイレも兼ねて、茂木海水浴場に立ち寄りました。キレイなビーチですね。
この茂木海水浴場には、その穏やかな風景にはとても似つかわしくないものが野ざらしで飾ってあります。大砲です。この大砲は、日露戦争(1904〜1905年)の日本海海戦で撃沈されたロシアのバルチック艦隊・巡洋艦ナヒモフ号のものです。日露戦争において撃沈されたナヒモフ号の将兵はこの茂木浜に上陸し、対馬の人に手厚く看護されたそうです。ちなみに、この対馬は日本海を往来する船を狙うのにとても良い所だったためか、いたる所に砲台が、それも大昔からあちこちに設置されてきた地でもあります。現在も国境の島として自衛隊の基地がありますしね。
五根緒の石塔
※この画像はクリックすると拡大できます。
対馬には所々に、このような石積みが海に面した地に残されています。もちろん台風などで崩壊する度に積み直されているはずなので、石自体は基本的に新しいモノではないかとも思われますが、、、。対馬には朝鮮から移ってきた大陸由来の人がいたため、この人達が祖国を思って積んだものとも、対馬独特の天道信仰者が積んだものとも言われています。ここは天道信仰の聖地が近いため、多分、天道信仰者が積んだものとも思われますが、果たして?どちらにしても歴史のあるものには違いありません。なお、ここは駐車場がなく、二台くらいしか停められるスペースがないので、先客がいたら駐車する場所には気をつけてください。
鳴滝
次の目的地へと向かう林道を走っていると「滝」の看板が目に止まったため、水モノ好きな私はやり過ごしそうになった車をすこしバックで戻って空き地に停車。増水期には滝の音が響き渡るほどであることからこの名が付いたそうですが、さすがに冬の渇水期に訪れると寂しいですね(汗)
ロシア兵上陸地
これもロシア兵上陸地の一つ。こちらは、崖の上に看板が立っていて、その下にある砂浜に藪をかき分けて下りて行くようになっています。ひっそりとした海岸ですが、韓国製のゴミがあまりにも散乱しているので、ちょっと撮影に工夫が、、、。このような韓国ゴミは各地の港に袋詰めされていて、至る所にあります。最初は何なのか分かりませんでしたが自分で海岸をウロウロしているとだんだん正体が分かってきました。なぜ韓国と特定できるか?それはハングルで書かれている上に、北朝鮮には経済的に存在しなさそうなものばかりが打ち寄せられているからです。台風のせいとか思いたいところですが、冬に台風はないし、たまたまと言い捨てるには各港にあるそのでっかい袋の量がすさまじすぎて(涙)。対馬の韓国占拠節が一部メディアによりかなり誇張されていたことはもうこの日までに既に分かっていましたが、違う意味で複雑な心境になりました。orz
こちらはその日本海海戦記念碑です。駐車場とトイレがあります。そして、前出のロシア兵上陸地の浜へは、ここから歩いて行くことになります。
豊砲台
世界軍縮会議で廃艦となった軍艦・赤城(長門もしくは土佐という説もあり)の主砲をこの砲台に据えたもので当時は世界最大の巨砲だったそうです。第二次世界大戦に使われたものですが、実際に砲火を交えることはなく終戦を迎えたそうですよ。ちょうど、この対馬旅行の直前にテレビでやっていたのを見ていて、行ってみようと思いました。現在、砲台そのものはありませんが、第二次世界大戦でも対馬は前線だったことを思いながら、この島の過酷な歴史に思いを馳せてしまいました。この対馬は常に日本の戦争の最前線にあった島なんですよ。本当に大変なことです。
対馬野生生物保護センター
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まだ夜景までには時間があるので、ツシマヤマネコを見に、対馬野生生物保護センターに行きました。無料なのですが、入館すると係の方が親切にもどのくらい時間があるかを尋ねてくださりました。心苦しいながらあまり時間がないと返答すると嫌な顔もせずに、少しだけツシマヤマネコ観察の注意をして、そのゲージに案内してくださりました。私が訪れた時は、福馬(ふくま)君が公開展示されていました。フラッシュや大きな音は禁止ですので、皆様、どうかお静かにご観察ください。このセンターにはツシマヤマネコの生態が詳しく分かる様々な展示がされています。ツシマヤマネコは、対馬に現在100匹前後しか棲息していないいわゆる絶滅危惧種の中の絶滅危惧種です。自動車による交通事故が毎年あるそうなので、レンタカーで回る皆さん、どうか、スピードを出さず、特に猫科の動物が活発化する夜間には道路脇の光るもの(野生動物の目)には気をつけて運転してください。。。対馬の道路はあまりにも狭くて、スピードを出してもあまり良いことは起こりませんから。
韓国展望所
昼間の韓国展望所に一度来てみました。いわゆるロケハンですね。ここは天候の条件さえ良ければ、遠く韓国の釜山を肉眼でも見ることができます。まぁ、豆粒みたいなものなので、カメラか望遠鏡で見ないとよくは見えませんけれどね。この施設は駐車場も完備され、対馬には珍しく、次々と韓国人観光客を乗せた観光バスが訪れていました。一説では、対馬を訪れる観光客のほとんどの目的は、出国の際に自国で買う免税品が目的との情報もありますので、そういう方にとっては、港からもほど近いここが、ほとんど唯一の観光地なのでしょう。皆様、たいした執着もなく、次々に訪れては、次々に去っていきました。
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幸いにして、韓国人観光客はそんな感じでしたし、ましてや日本人観光客などこの対馬ではほとんど見かけませんので、夜に再訪した時には誰もおらず、夜景を独占しましたとさ。ただ、ここは風が強いので超寒かったですよ。脚が丈夫な三脚じゃないとつらい場所です。冬は北風がふきすさびますからね。おかげで空は透き通っていて夜景撮影には最適でしたが、望遠だと三脚が風の振動を拾ってしまってブレを抑えるのに風止み待ちをしていました。手前に見えるのは自衛隊の基地です。
。。。まだまだ終わりじゃありません。4日目に続きます。
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- 対馬観光日記:日本の歴史を追体験する旅・2日目
- 2015.05.02 Saturday
- category: 撮影手記
-
前回「1日目」はこちらからどうぞ。
さて、対馬旅行2日目。
実質的な初日である今日から、風景写真家らしく(?)、「良い風景写真は夜討ち朝駆け」とばかりに、朝早くから駆けずり回ることにしました(笑)
対馬藩お船江跡
まずは宿泊地の厳原近くの漁港にある「対馬藩お船江跡」から。長崎県指定史跡です。
ここは、日本と朝鮮半島間の往来の中継地だった所です。なんとこの石積みの入り江は1663年に造られたそうです。石積みは当時の原形を保ったままで、現在でもこのような原形を残した船江跡としては日本で唯一と言っても良いほど状態が良いそうです。約350年も前に造られたものが、だーれもいない所に普通にあるのが対馬という場所なんです。スゴイです。でも、これでも、まだまだ序の口です。
内山峠の朝景
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お次は、内山峠。駐車スペース横には簡易トイレと、春秋には渡り鳥(アカハラダカ)が見られるよというバードウォッチャー魂をくすぐる素晴らしい看板がありました。そして展望台を登ると「バーン!」と開けた展望が。朝日の方を見ると、薄曇りの隙間から太陽がコンニチハして、天使のはしごが見えました。これで2日連続で天使のはしごです。幸先が良さそうです。
スジダイの森
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対馬の南端・豆酘(つつ)にやってきました。対馬は南北に長く高速道路がないので、南に向かったら、一日南にいないといけない場所です(北もしかり)。豆酘は赤米神事や亀卜などの古い風習が残る土地で、豆酘の龍良山(たてらさん)は、その中でも、昔は天道信仰の聖地として立ち入りが禁じられていて、斧が入ったことのない本当の原始林が残る場所なんです。この森の照葉樹(スダジイ、イスノキなど)の平均樹齢は約200年とされていて、今では国の天然記念物にも指定されています。なお天道信仰というのは、対馬での太陽信仰なのですが、聖マリアの処女懐胎とイエス・キリストの話にところどころ似ています。興味のある方はWikipediaの「天道」をどうぞ。この天道信仰の中心人物・天道法師がいつ頃の人かというと、文武天皇を治癒したと伝承されているので、なんとAD700年前後のことです。聖徳太子の時代からわずか百年しか経っていない頃です。一気に時代が遡ったのでうさんくさく思うかもしれませんが、これが対馬の歴史のスケール感ですよ。聖徳太子くらいの時代には、既に対馬は日本と朝鮮半島や大陸間の交易の中心にあった場所なので、何の知識もなく訪れた私はカルチャーショックを受けました。中国・三国志の時代(AD300年頃)に書かれた「魏志倭人伝」にも対馬国として登場するような古い歴史を持つ島なのです。
鮎もどし自然公園
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元寇の戦場跡へと向かう途中、鮎もどし自然公園に駐車して瀬川に降りてみました。瀬川は一枚の花崗岩の上を流れる珍しい川で、川床がつるつるです。いつか新緑の映える、梅雨時の雨上がりの朝に撮りたいものですね。
古茂田浜(元寇古戦場跡)
この辺が、古茂田浜という海岸で、元寇の古戦場とされる場所です。この浜に元の大軍が押し寄せました。一応Wikipedia記載の情報を元に要約すると、元寇とは、鎌倉時代に皇帝クビライの支配するモンゴル帝国(蒙古/元)とその朝鮮半島属国の高麗王国が日本に対して2度行った大規模侵攻のことです。一度目が1274年の文永の役、二度目が1281年の弘安の役と言います。クビライが日本に興味を持ったのは、一説にはマルコ・ポーロの東方見聞録の中で日本にはあふれるばかりの金があると書かれていることに端を発しているとか(えーい、迷惑なマルコ・ポーロめ!)。とはいえ、すぐに侵攻してきたわけではなく、まず1268年から1272年までに何度かに渡って朝貢を勧める使節団を日本に送ってきましたが、折り合いがつかず、そして翌年から準備が進む侵攻へと繋がります。日本の本土の歴史教科書で習うのはこの侵攻のあたりが中心で、その中では、神風によって救われた的なことが書いてあって、めでたし、めでたしとなります。ところがですね、当然ですが、本土に至る前には途中にある対馬や壱岐に寄っていて、対馬では守護代の宗資国(あるいは宗助国)が80騎あまりで元軍1000人と戦って戦死し、島人の多くも殺害されたそうです。壱岐では守護代の平景隆が100騎あまりで応戦したそうですが、当然かなうわけもなく戦死しました。ちなみに元軍は元からの主力軍が15000〜25000人、高麗軍が5300〜8000人とされています。当時の海岸線は今の古茂田浜よりも陸側にある場所とされていて、実際にその辺りに、当時の守護代・宗氏の首塚、胴塚があります。首と胴が別れていることに当時の侵攻の悲惨さが表れていますね。。。
これが、その古茂田浜脇にある古茂田浜神社です。元寇の際に国土を守って亡くなられた英霊を祀っています。合掌。
椎根の石屋根倉庫
石屋根とは、対馬の伝統的な屋根葺き方法で、瓦より堅固な石材が容易に得られる地方であったため古くからあったと考えられています。石屋根は現在でも対馬の所々で見ることができますが、特にこの椎根の石屋根は、浅海の島山から運んだと言われている厚い砂岩で出来ていて、対馬の中でも格別とされています。石屋根は人家には使用せず特に大事な倉だけでも火災から残すために使われていたそうですよ。
豆酘崎の夕景
対馬の中で車で来られる地での南端となる豆酘崎に来ました。本当の南端はここからそう遠くない神崎なのですが、、、まぁ一人旅というわけでもないので読者の皆様にはカンベンしてもらうことにして。で、その豆酘崎に来た目的は、西にあることから夕景です。夕景と海岸風景を絡められないかと思ってやってきました。
※この画像はクリックすると拡大できます。
で、これがその夕景です。雲がちの微妙な一日でしたが、一日の最後に、その雲のおかげで天使のはしごを使った風景写真を撮ることができました。めでたし、めでたし。
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