- 対馬観光日記:日本の歴史を追体験する旅・4日目
- 2015.05.03 Sunday
- category: 撮影手記
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前回「3日目」はこちらからどうぞ。
対馬旅行4日目です。
前日までに一応島内一周したことになるので、ここからは行けるだけ行こう的な感じになります。4日目のテーマは宗教、でしょうか。
永泉寺(隠れキリシタン)
まずは隠れキリシタンの名残を求めて、豆酘の永泉寺にやってきました。この像はキリスト像と考えられています。
この像はマリア像と考えられています。
長崎は江戸時代に隠れキリシタンが多かったこともあり、明治以降の宗教自由化によりカトリックに戻る人が多かった土地柄です。そのためカトリック信徒の日本全国平均はわずか0.34%(2013年末の集計時)にもかかわらず、長崎県だけで見ると、4.3%(同)となんと全国平均の10倍を超える密度です。長崎県の中でも隠れキリシタンの地だった集落では現在でも9割以上がカトリック信徒という場所もあるくらい、長崎県はカトリックが多いのです。ちなみにカトリックに戻らなかった独自のカクレキリシタンという宗教が長崎では今でも存在しています(潜伏が250年と長きにわたったため独自に発展したためと考えられています)。
ところが、そうした背景がある中で対馬にはカトリック教会がないのです。これだけ人口がいて、他の新興の宗派の教会がある中で、最も古くから布教していたカトリック教会がない理由はなぜなのか、疑問はつきません。対馬では、鎌倉時代から宗家が統治していたのですが、その19代島主の宗 義智(そう よしとし)が戦国武将・小西行長の娘マリア(洗礼名)と結婚し、自らもダリオという洗礼名を持つキリシタン大名でした。しかし、その後、豊臣秀吉による1587年のバテレン追放令からの一連のキリスト教弾圧もあって、関ヶ原の戦いで負けた西軍に与した義父の小西行長が徳川家康に処刑されるにいたり、その累が及ばないようにマリアを離縁し、その後、自らは棄教したそうです。
とはいえ、この像が示すように、隠れキリシタンはある程度潜伏に成功もしていたようで、なぜその後、他の長崎の地域のように復活できなかったのか。少し本土から遠すぎて、大浦天主堂での「信徒発見」から始まるカトリック復興の情報が伝わらなかったのでしょうか、ね。本土よりも韓国の方が近いですからね、、、。
八丁角(天道信仰の聖地)
こちらが八丁角の鳥居。
こちらが八丁角。
八丁角とは、天道信仰における天道法師の墓であり、禁忌(タブー)の地とされていた場所のことです。天道信仰とは天道法師とその母を祀る対馬独自の信仰です。天道法師は、AD685年に、その母の体内に太陽が入って産まれたと言われ、AD718年に空中飛行により病気で苦しむ元正天皇の元へ行き病気を治したという伝説が残されています。これは仏教に取り込むための話ともされていて、実はそれ以前にも自然信仰(対馬の祖霊=わだつみ=天道神=太陽神)として天道信仰は存在したという説もあります。いずれにしてもかなり古い話には違いがありません。
世界には同じような伝説が多く存在するそうなので、珍しいことではないのかもしれませんが、キリストとマリアの話に似ていると思う人は少なくないことでしょう。
多久頭魂神社(天道信仰の遥拝所)
多久頭魂神社の鳥居です。多久頭魂神社は、一説には、天道信仰の禁足の聖山であった竜良山(天道山)を拝むための遥拝所として建てられたとされていますが、正確な創建の時期や事情は不明です。本来の祭神は対馬特有の神である多久頭神であり、現在は天照大神などを祀っています。少なくとも続日本後紀にある、837年に多久頭神を無位から従五位下に叙する旨の記載が残っていることから、それより以前からあるのは間違いありません。
多久頭魂神社の梵鐘です。1344年に制作された国指定の重要文化財です。
多久頭魂神社の山門です。
多久頭魂神社の本殿です。中に入って拝むこともできます。
なお、2012年10月に、この多久頭魂神社が所有する長崎県指定文化財の「大蔵経」が、海神神社と観音寺の仏像各一体と一緒に韓国人グループにより盗まれました(対馬仏像盗難事件)。対馬仏像盗難事件の顛末については今さらという気もしますが、一応書いておくことにしましょう。要約すれば韓国窃盗団が売りさばこうとしたところを逮捕されましたが、韓国側では元々仏像は朝鮮にあったもので、それが倭寇(AD1400〜1500年の頃)または豊臣秀吉(AD1600年の頃)に朝鮮から持ち去られたものなので、日本に返還する必要はない、というものです。ですがさらに調べてみると、そもそも秀吉の朝鮮出兵の前に、韓国ドラマで人気の李氏朝鮮は激しい仏教弾圧を繰り返し、特に太宗(在位1400〜1418年)の時代は過酷だったとされています。これらの弾圧の結果、当初1万以上もあった寺院は秀吉の朝鮮出兵時にはわずか36まで減りました。そして、その弾圧から仏像の破壊を避けるためにこれらが対馬に保護された、という説があります。もしもこれらが日本本土に来ていたら朝鮮出兵の戦利品かなと思うのですが、政治の中心地から遠い対馬に置かれたのですから、持ち去ったというよりは保護したとする方が時代背景的にしっくりきます。すでに書いたように、なにしろ対馬は日本で最初に仏教教典が伝わった仏教ゆかりの地ですからね。それと、1400〜1500年頃には対馬などからの通交の拠点が朝鮮半島にあったことから、対馬に帰国する際に駐在していた人が持って帰った可能性もあります。朝鮮半島での弾圧に比べて、当時の日本は仏教を保護していましたからね。
本殿の奥にある、対馬最大の大楠です。高さ30m、幹周りが7mあるそうです。
※画像をクリックすると拡大できます。
その大楠を逆光で太陽を入れて撮影してみました。太陽の光をいっぱいに受けてエネルギーを充電していることを表現するために、あえてハレーションを切らずに画面全体に派手に入るように構図してみました。
阿麻氏留神社(日本の神の起源?)
対馬の北側と南側を結ぶ中間地点の小船越の道路脇にチョンと建つのが阿麻氏留神社(あまてるじんじゃ)です。本殿が階段の上に建つので、道路からは見えません。それが調べてみると、「あまてる」は「あまてらす」の元になった言葉で、天照國照彦火明命(天照大神)のこと。阿麻氏留は、日照のことですから、太陽信仰である天道法師に繋がるキーワードですね。天道がまた出てきましたよ。天照大神の起源については諸説あるようですが、この対馬の阿麻氏留もその有力候補の一角なのです。663年に日本・百済連合が、唐・新羅連合に白村江の戦いで完敗したため、日本(大和朝廷)は朝鮮半島への足がかりを失い、逆に唐からの本土侵攻を恐れました。それで、538年の伝来以来、聖徳太子が神と定めた仏を捨てて(汗)、新たに天照大神を神とすることで新たな霊力を得ようとしたとする説があるようです。そう考えると、どちらも対馬が無関係ではありませんから、やっぱりこの阿麻氏留が天照の元になったのかもしれない、とも思えてきます。実際のところ、白村江の戦いに破れてからすぐに、この対馬に古代の山城・金田城(かなたのき)を築いています(後で出て来ますよ)。ここまで条件が揃っていて無関係ってことはさすがにないですよね。んー、歴史ロマン。
小船越
小船越(こふなこし)の西漕手(にしのこいで)です。小船越は地名の通り、東西の海路を結ぶ陸地で、小船を担いで東西を渡ったことに由来します。この場合、東は日本、西は朝鮮。日本が唐などの大陸と交易をするための中継地だったのです。大船の場合は、ここで乗り換えることになります。対馬には海の神様を祀る神社が多いのですが、この大航海の安全を祈願するためと考えられています。
※画像をクリックすると拡大できます。
その西漕手にアオサギが居たので、しばらく被写体になってもらいました。和紙印刷用のモノクロバージョンも同時に創作してみたのですが、いつか日の目を見る日が来るでしょうか。
梅林寺(日本への仏教伝来の地)
それで、この梅林寺も小船越にある小さな寺の一つに過ぎない、、、ということはなく、実はこの寺は、朝鮮(百済)から仏像や教典が日本(大和朝廷)に伝わる前に、一時的にその仏像や教典を安置したお堂がその由来なのです。その仏像や教典は538年に日本に伝わったと史実ではされています。ちなみに、この時の仏像は、聖徳太子の時代に信濃国司の従者・本田善光によって長野県の善光寺に安置されています。秘仏とされて一般公開はされていないので見ることはできませんが(レプリカは見ることができます)。
住吉神社
住吉神社の本殿です。住吉神社の起源は、AD200年に神功皇后が三韓征伐を指揮した帰りに、ここに海神を祀って、応神天皇を産んだという伝説に由来します。三韓征伐とは、神功皇后が指揮して新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争のことです。なんと、お腹に子供(応神天皇)を身ごもったまま海を渡って出兵したそうです。なお、名前は一緒ですが、日本全国にある住吉神社はここが起源というわけではないとのこと。
この神社は海神を祀っているだけあって、海に面した鳥居があるんですよ。海に階段が伸びているので、昔は海側から船でやってきてお参りしていたのかもしれませんね。
豊玉姫伝説と真珠の浜
和多都美神社のかつて一部であったとされている「玉の井」です。神話の時代、豊玉彦尊には一男二女の神がいて、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・玉依姫命と言いました。ある時、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと/山幸彦)は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に3年滞在する間に豊玉姫命を娶り妻としたと伝わっています。そして、この時の彦火々出見尊と豊玉姫命の出会いの場所が、玉の井だったと古事記では語られています。豊玉姫命がこの時に身ごもったのが彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)で、日本の初代天皇とされる神武天皇の父にあたります。日本書記の記載によれば、これらは紀元前700年頃の設定ということになっていますが、ここまで古くなるとさすがに根拠が怪しいので歴史じゃなくて神話ですね。
※画像をクリックすると拡大できます。
対馬は真珠の産地でもあるのですが、それも豊玉姫の伝説に由来があります。真珠は豊玉姫の涙とも、豊玉姫自身が真珠が神格化されたものともされています。どちらにしても複雑な海岸線を持つ対馬は古くから良質な真珠が採れる場所だったのは確かなようです。
烏帽子岳から望む浅茅湾
※画像をクリックすると拡大できます。
玉の井のある和多都美神社からさらに奥に車で走ると、烏帽子岳の展望台に行くことができます。烏帽子岳からはさっきまでいた真珠の浜なども見えます。この日は、イイ感じの夕焼けになり、一日のシメとして最高の終わり方となりました。
対馬編はまだ続きますよ(笑)
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