写真のコラム | 風景写真家 落合勝博 ゆるブログ
緑一色の風景を撮れてこそ一人前の風景写真家
category: 写真のコラム
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    写真を始めたばかりの頃も、そして今も。
    あまりにも不自然に彩度を高めた写真がウェブなどには氾濫しています。
    なんで、こんなに緑っぽいの、とか。なんで、こんなに赤いの、とか、、、ね。

    たまたま見ていたあるサイトの所で、うんざりするほど彩度の高い緑の葉っぱを見て、自然はそんなに色鮮やかではないよ、レタッチしすぎだよ、と一人ツッコミを入れてみました。それで今日の記事を書こうと思いたちました。そういう意味では読者にとってはそのあまりにも高い彩度の写真に感謝、、、という回になるかも。(^_^;)

    今はなき、廃刊された月刊デジタルフォト誌で、当時、dpC1の選者を勤めていた萩原史郎さんが、いつだったか「緑一色の風景を撮れてこそ一人前の風景写真家である」というようなことを言っていたことを思い起こします。

    真意は推測ですが、僕は、青や赤など人間が本能で注目してしまう強い色の主張がない、色彩がとぼしい風景でも、一枚の写真として心に残せるような表現レベルに到達しなければならない、そういう何かを目指しなさいということかなと思いました。

    それからの僕は、素直に(笑)草原や森林、渓流を中心とした撮影を主体にするようになり。
    最初は、赤や青のない森林や渓谷の写真は面白みがないな、と思っていたことを思い出します。、、、ほんの4年前とか5年前のことですが。

    ところで、当時、絵画の勉強を始めていた僕は、画家の中には、ある時代に、突然、色彩を限定した絵画を描くようになる人がいることに注目しだすようになりました。

    一人は、ピカソ。もう一人は東山魁夷。

    ピカソには、「青の時代」というぼやっとした青系統の色彩だけで絵画を描いていた時代があります。そして、東山魁夷も最初は普通の風景画だったのが、いつのまにか緑青系の色彩で描いていっています。二人が同じ境遇であった、というわけではありません。ピカソは悲しみによって、東山魁夷はおそらく思い出と心の中を表現するために、そうなっていったのだろうと思います。

    そこには、偶然性はなくて、青の持つ独特のイメージ、つまり、悲しみ、沈静、幻想、、、青系統の色彩が持つ映像表現を意識していた、それだけは確かです。

    色彩には、どんな色にも、それぞれにイメージが伴います。赤は情熱や暑さ、青は冷感や沈静そして悲哀、黄色は危険や南国風、紫色は高貴、など。画家に限らず、感情を表現できるレベルの写真家ならば、そうしたイメージを象徴として使いこなします。その意味では緑色というのは生命力の象徴と言えるのだろうと思います。

    つまり、緑一色の風景というのは、特定の目立つ色彩を使わずに構図技術だけで生命力を表現してみろ、そういう意味だったのかな、と当時の僕は思いました。

    言うのは簡単なのですが、、、1、2作品ならともかく、実力で撮っていると言えるのはまとまった数(例えば連作で10作品以上)の作品が撮れるようになってからですから、それらの全てでその実力を示す必要があるわけです。取り組んでみると、これは、なかなか高度な要求でした(^_^;)

    そんな中、2009年7月の青森へのショートトリップの初日に立ち寄った奥入瀬渓流が僕のハートに突き刺さりました。そこで初めて写した時に、「これだ、これこそ、僕が写すべき場所だ」と直感したのです。それで、翌月の夏休みの連休は全てを奥入瀬に捧げることにしました。最初はただ夢中で撮っていたのですが、3日も滞在して撮り続けているとさすがにネタが尽きてきて、それ以上滞在して撮ることにどれだけ意味があるのか、そういう思いが募ってきました。

    同じ季節の中で、4日以上同じ場所で朝から晩まで撮影するというのは、今までの視点でモノを見ているだけでは足りなかったのです。それからは奥入瀬渓流を隅々まで、あらゆる時間、あらゆる天候の下で観察してみました。上を向いたり下を向いたり。昨日と違う「何か」がないかを必死に探しました。

    雨が降ったり、突然晴れたり、霧が出たり、夜中に目が覚めて突然撮ることにしたり、、。そうした普通は撮らない(撮れない?)状況で同じ被写体に向き合った結果、あらゆる被写体には、「撮られるべき何か」が最初から内在していて、それに気付くかどうかは撮影者自身の問題だということに気付くようになりました。

    昨日はなんとも思っていなかった1cmもない小さな虫が今日はなんだか無性にかわいく見えたり。昨日は視界に入ってすらいなかった樹木が、逆光に透けて力強く見えたり。普通だと思っていたシダ類が雨の朝には突然輝きを放ったり。天候や気分、あるいは時間の変化といったものがどのように自分の心、自分の撮影に影響を与えるかを、いつしか自分と対話しながら、確認しながら撮影できるようになっていました。

    本当に探さなければいけないことは、実は最初から自分の中にあったのです。

    最初の滞在は9日間。その最後の日、僕はまだこの奥入瀬渓流の魅力を全然撮り尽くせていない、また来ようと思ったのです。それから1年間のべ30日間に渡って、ちょこちょこと奥入瀬渓流に通い続けるようになったのでした。

    緑一色、と言っても、色々な写し方があるものです。
    自分の心がどう思うか、限界を超える試練を自ら課してみることも成長には必要なことです。

    そういえば同じような試練に、50mm単眼で撮るというものがありますね。固定焦点だけで撮り続けるためには、被写体をどう撮ったらいいか特別な配慮が必要になります。、、、そういえば、これも40D+24mm(=おおよそ40mm単眼と同じくらい?)で香港でやってみてました(笑)。

    当時の奥入瀬渓流の写真はこちら
    その写真をまとめて個展をした時のムービーはこちら
    香港の写真はこちら




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    日本の風景撮影環境は世界一ィィィ!
    category: 写真のコラム
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      風景写真を撮り始めた時は、それほど考えていなかったことですが、ここ2、3年、思うことは、日本という国では、風景写真は実に撮りやすいのです。

      なぜか?

      1.四季がある
       例えば同じ経度にあるオーストラリアは雨季と乾季しかありません。あれほど広い国土でありながら、砂漠と海岸がほとんどを占めていて、季節の間の移り変わりを実感できないのです。同じアジアの例えばシンガポールやタイにも訪れたことがありますが、一年中、蘭が咲いています(蘭は熱帯では屋外でそのまま生育する植物です)。アメリカ?砂漠がほとんどですよ、、、。森林があり、花が咲き、紅葉があり、雪が降る、そんな場所は、日本だけではないとはいえ、世界では稀な環境なんです。四季があることで、変化に富んだ風景写真を撮ることが簡単にできるのです。

      2.水が豊富
       島国でありながら、急峻な山が多く、地形的に恵まれているため、川と森林、草むら、そして活火山の噴火によって体積した豊穣な平地があります。その一方でリアス式の海岸がほうぼうにあったりと、実に豊富な地形を持っています。水は生命の源。水によって育まれた植物が、また様々な変化をもたらしてくれます。山、川、海、平地、盆地、丘、谷、森林、と様々な風景を撮ることができます。

      3.国土が狭く(正確には平地が少なく)人口が多い
       食料事情や住環境を考えるとあまり良い条件ではないのですが、こと自然へのアプローチとして考えると、全国津々浦々に至るまで高速道路や林道を含めて、ほとんどの場所に近くまで車でアプローチできます。しかも人口がそこそこの地域ではコンビニがあったり、道の駅があったり、そうしたものがない地域でも少しでも観光地化している場所では小さな汲み取り式のトイレがあることがほとんどです。このトイレがどこにでもある、というのは世界的にはほとんど考えられないくらい、撮影には有利な条件なのです。ごくごく稀には野○○もしなくてはなりませんが、ほとんどそういうことはしたことがない!と言えちゃうくらい、日本にはトイレが多いんですよ。紙は自分で持参が必要なこともありますけれど、それだって諸外国からすれば考えられないくらい用意されている場所がほとんどです。日本人のキレイ好きと窃盗が少ないモラルの高さのおかげ、といえるでしょう。中国などでは公衆トイレに番頭さんみたいな人がいるくらいですからね、、、。
       そして、高速道路が主要な地域を短時間で行き来することを可能にしています。写真以前は、高速道路なんてこれ以上いらないだろ!って思っていましたが、今は、ここにもあそこにも欲しいと考えています。ちょっと現金ですね。ただ、これは、僕のもう一つの顔である日本野鳥の会会員の立場で考えると、自然保護的に色々問題もあって、心中、なかなか複雑です(^_^;
       さらに、南北でかなり風景に起伏があり、北海道の寒さ、沖縄の暑さ、そうした極端な条件が同じ国土で、しかも狭い中に同居しているわけです。これだけアプローチしやすい多様な環境というのは、世界の中でも本当に貴重なんですよ。

      4.経済的に恵まれている
       日本がいくらGDPで中国に抜かれたとか、失われた10年が20年になろうが、それでも、世界の大部分の国からすれば、非常に経済的には恵まれています。もう、これはホントにそう思います。だって、ガザ地区や北朝鮮に生まれていたら、地雷を踏んだり餓死したりなど、明日生きているかも怪しい状態です。そんな極端なレベルはさておいても、生活に汲々としている状況では、目の前の滝への道を整備しようとか、登山ルートを確保しようとか、そんな精神的な余裕はなかなか生まれないものですよ。それを、ほとんど善意で整備しちゃうことができちゃう国なんです。日々生きることだけに追われない恵まれた経済環境が、この国の自然の素晴らしさを世の中に発信するためには絶対重要なんです。だって、アプローチルートがなかったら、ほとんど写すことができません。

      5.農業国である
       日本は今や工業国ということになっていますが、、、実は結構な農業国です。というか自然と調和しながら持続可能な経済を長いこと営んできたのです。おかげで、「里山」という素晴らしい自然環境が、今も多く残っています。問題は、放棄されると持続できないところなのですが、こればかりは50年後、人口が減ってどうなってしまうのか僕も懸念しているところです。今後、撮れなくなる風景は、まず、この農業的風景と、前出の善意で整備されてきたルートではないかというのが僕の最大の懸念です。ただ、工業も衰退していくことを僕のシナリオでは想定しているので、工場萌えなんて言ってられるのもあと数十年のことで、後は工業では廃墟萌えだけが残るのかもしれません、、、。

      6.全国に都市がある
       日本が狭い(平野)の中に世界有数の人口を有しているために、北から南まで様々な都市を生み出しました。それぞれの都市は独自性があり、都市風景としてもなかなかの多様性を持っています。昼間に自然風景を撮った同じ日に都市風景の夜景も撮れちゃう、そんな楽ちんで欲張りな撮影ができる国は世界の中で多くはないです。というか、ほとんどないです。日本はそうした国なんです。もうホントに、すっごく恵まれています。

      、、、飲みながら書いているので、なんとなく、まとまりに欠きますが(いつもそうだけど)。(^_^;
      これだけの環境に住んでいて、日本の素晴らしい風景に目を向けないと、もったいないよ、もっと、この素晴らしい日本をちゃんと写真に残していこうよ、という喚起のメッセージでした。

      あなたの身の回りに、数年後には残っていないかもしれない、存続が危ぶまれている場所はないですか?
      さ、明日からでも、みんながんばって撮りましょう!(^-^)/

      ただし、持続可能なように、後の人のために、自然を荒らさないように、木道から出ないとか、柵を乗り越えないとか、そうした最低限のルールは守ってね!

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      美しいだけの風景を超えた何かとはー写真家と写真作家の違い
      category: 写真のコラム
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        「風景写真における水平の取り方」という記事の中で、僕は、風景写真とは美しいということの他に『何か』がなければいけない、ということを書きました。

        多くの人にとって、風景とは美しいものであって、また、そうした美しさが風景写真へと駆り立てるのだと思います。それは、風景写真を撮るモチベーションとしてすごくまっとうなことだと僕も思います。そして、美しい風景は、きちんと撮影技術を自分のものにし、適切な場所に適切なタイミングで訪れれば誰でも撮れるようになるものです。

        、、、記録としての風景写真はそれでいいんです。いいんだと思います。

        しかし、人々の記憶に残るような風景写真は、それだけで撮れるわけではありません。

        そうした写真は、感情のレベルで美しいと思う以上の何かを訴えかけてくるのです。その何か、というのが、美しさの他に必要なことで、写真家が鑑賞者に対して投げかけるメッセージなのです。

        実のところ、どんな人でも一生写真を続けていれば、一つや二つの傑作が撮れると言われています。そうした、「一発」は、たまたまその何かを備えていたのかもしれません。しかし、トップクラスのプロは継続的にそうした作品を創ることができます。一体、何が違うというのでしょうか?あるいは、どうして一冊にまとめられるほど、一貫した個性を発揮できるのでしょうか?

        僕は、以前にこの疑問に対してずっと考え続けてみました。これは、写真家と写真作家の違いでもあります。

        その結果、もっとも顕著に違うと思われるのは、美を越えた何かをきちんと意識して作品に込めているからではないかと思うようになりました。

        写真を撮る以上、誰でも被写体に対して、何らかの評価をしていると思います。これは美しいとか美しくないとか、そんなことを、ね。ただ、「何か」を写真に込めるためにはそのような刹那的な一貫性のない方法だけでは足りないのです。

        その頃の僕は、なぜ僕は風景写真を撮るのだろうか、誰に向けて撮るのだろうか、何を撮ればいいのだろうか、という自分の写真とは何か、オリジナリティとは何かを問わなければその先に行けない段階にきていました。

        この問いかけを通じて、写真あるいはアートにおけるオリジナリティとは、新しい手法か、新しい視点で創られるということである、という結論に至りました。しかし、写真の技法というのは、そう多くはなく変化もつけづらいものです(不可能という意味ではありません)。無理に変なことをしても、ただ変なだけに終わります。

        そこで、必然的にもうひとつの「新しい視点」とは何か、どうやったら持てるのか、ということを考えてみることになりました。

        新しい視点とは、今までにそうした解釈はされてこなかったね、というものです。

        人間はみんな違う個体で、それぞれに違う生い立ち、違う環境、違う喜び、違う悲しみを抱えて生きています。そうした個人的な性格や感情、モノの見方が個性なのです。その個性に基づいた解釈こそが、イコール、新しい視点なのだと思います。

        僕の場合は、例の体験で魂に刻み込まれた強烈なイメージがあります。ですから、そのイメージをメッセージとして込めればいいんだ、という結論に至ったのです。そうしたイメージを目の前の風景で表現できないか、と考えているのです。

        自分のモノの見方、つまり世界観をきちんと認識するには、長い時間をかけて自分の心に問いかけ続けなければなりません。自分は何者か、何が好きで嫌いか。何をしたいのか。そうして、自分の心が求めている欲求に素直に耳を傾け、自分という人間を知り尽くさなければいけないと思うのです。ところが、こうした問いかけは、多くの人にとってすごく難しいことです。心は、本当の気持ちを容易に覆い隠し、なかなか本当のことを教えてくれません。今のままがいいのだ、楽だと言い訳を考えては嘘ばかりついてきます。だから、そうした偽りの自分を越えて、本心をすっかり暴く努力が必要になります。

        そして、どうにかこうにか白状させた本心、自分自身を元に、自分に向く表現方法を選択するのです。撮影技術とはただの表現方法であって、表現方法だけがあっても作品を作ることはできないのです。いい道具があるだけなのです。

        このようにして、自分が表現すべき内容と、それを表現する技術を備えることで、写真作家になれるのだと思います。

        以前の記事についたコメントに対して「技術はマネできるけれど世界観はマネできない」ということを書きました。これは、今回書いた思想に基づいたことなのです。

        技術については、僕も教えられますし、それをマネすることもできます。そのためにこうして書いているのですから。過去には、僕が色々と手助けをしたことで、すごく上手くなった人もいます。しかし、そうした人達も、単に技術を学んだから上手くなったのではなくて、背景にある思想を磨いたからこそ上手くなっていったのです。

        こうしてあらためて説明しようと思ったのは、以前に、中途半端に僕の技術や思想の影響を受けてしまって弊害が出てしまった人がいたためです。

        あるグループ展でのことですが、フォトコンにも入選し始めた昇り調子のAさんと僕の作品は、離れた所に展示されていましたし、被写体も違うし色使いも違っていました。しかし、ある新聞社の写真関係のプロ(撮る側ではなくて見る側のです)は、僕を捕まえるなり、この作品のAさんはお弟子さんですか?と、見透したように僕に聞いてきました。僕自身もその作品の精神的な部分の類似性に事前に気づいていなかったのでビックリしたものです。あるレベル以上になると分かってしまうのです。こうしたことがあるので、誰かの劣化コピーではなく、自分自身の写真を撮りたいという人ならば、どこかで、自分のレールを自分で敷いて、思想的にも技術的にも独自の道を歩み始めなければならない時期が来るのです。その時(もう誰からも学べることはなくなったと思った時)が来たら、どうか勇気をもって自分の進むべき方向に進んでください。その道は、草がぼうぼうでとても歩きづらいので、正直、進むのがしんどい時もありますが、そうした苦労によって得られることがあるのです。

        撮れば上手くなるというのが不誠実なアドバイスだというのも、撮るだけではなくて、こうした思想的なことをいくつも自分で考えて解決していくことでしか乗り越えられない壁が僕にはあったために言っているのです。それは撮っていれば解決するという単純かつ簡単なものではありませんでした。

        カメラ技術は、かつてコダック社がそう意図し宣伝したように、シャッターを押すだけで写るような時代になりました。おかげで誰でもそこそこの写真を撮れるようになりました。以前は露出計算ができなければ撮ることさえできない非常に技術的でマニアックな世界でしたが、今はそうしたことはカメラがやってくれます。しかし、その先の世界を見るためには、シャッターを押すだけでは足りないのです。カメラは思想的なこと、本当に表現しなければならないことまでは自動で写してくれないのです。

        以前に、こうした問題を考えていて自分なりの答えを出した頃、自分の考えに対するサポート材料が欲しくて一生懸命書店を探していた時に見つけた本を紹介しておきます。写真の技術的な側面を教えてくれる教科書は多いのですが、作家の思想的な部分をきちんと説明した本は、この本以外には読んだことがありません。僕が「イチオシ」の良書です。実は、未読の本が切れたので、ちょうど読み返していたところです(汗)。ただし、読む人を選ぶ本でもあります。正直、技術的なこともおぼつかないうちに読んでためになるのか、この内容を消化できるのかは、僕には自信がありません。僕が今回書いた記事に納得してしまった人、悩んでいた答えを見つけたような気がする人、または、逆に何を言ってるんだ!そんな必要ないだろ、と批判ができる人だけが読むべき本だと思います。でないと、抽象的で意味不明な本、としか思えないでしょう。それだともったいないですよね、、、。


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        写真の上達方法・補足ー「これだけ覚えれば上手くなる」記事の嘘
        category: 写真のコラム
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          写真の上達方法ー客観基準を自分の中に育てるという記事のコメントに対して返事を書いていたら、あまりにも長文になったので、記事として独立させることにしました。読んでいない方は、元記事を読んでからの方が楽しめます。

          上手くなるには「良質な作品をたくさん見ること」と書いたことに対して、僕の場合、どのくらい見ていたかですが、最初の数年は、平均すれば、一日、30枚以上は見続けていました。ノルマとして決めていたわけではなくて、その頃の使える時間をギリギリまで使うとそのくらいだったということです。見始めの最初は時間がかかるので枚数も少ないのですが、だんだん、これはあのパターンだ、いやこれも複合要素として入っているな。この色使いはこのパターンをベースにしているのかな、と分析できるよになります。そうなると、典型的なものについては構図や配色で迷わなくなるのですごく早く分かるようになっていきます。一分も眺めれば分かるようになります。その段階まで到達するのが僕の場合で8~9ヶ月後くらいの頃でした。その間、並行して、少なくとも1ヶ月に1冊は新しい教科書を読んで元になる基礎知識を増やしていました。それでも、やっぱり謎として残る部分はあって、どうしてこう感じるのだろう、というのは自分への宿題として溜め込んでおいて、思い出しては考える。そして、新しい教科書に何か書いていないか探してみる。それでもないから、また考える。で、数週間、時には数ヶ月の間、ずっと宿題について考え続けていると、だんだん考えが熟成されていって、ある日、自分の中に答えがあったことに気付く、、、。そんな仕事以外の時間は写真のことしか考えない幸せな生活を過ごしていれば、1年~1年半くらいで達成可能です(笑)。家庭持ちの人だとちょっとばかりツライかもしれませんが、幸いにも電車通勤の人は、その時間にずっと考えているだけでも相当できるのではないかなーと。車内の広告だって立派な教材なんですよ。文字があるのでバランスを取っていたりするのですが、それをまた考えてみたり。テトリスが流行った頃、何を見てもテトリスのように詰めることを考えてしまう人がいましたが、そのぐらい、考えていたんじゃないかな、と。
          それと、学習の成果を確認するために、この段階の頃は、好き嫌いはともかくフォトコンにはやっぱり積極的に出す必要があると思うんです。それで、通るようになると、そうか、これぐらいならば客観的に「良い」と判断されるんだ、と分かるし、落ちれば、これだとダメなんだ、何が悪いんだろうと考える。それで「ズレ」を修正できるわけですね。多少選者に左右されることは否めませんが、それは圧倒的に選ばれる作品でないのが原因で当落選上になっているだけなので、、、選者のせいだけにしているうちは、、、やっぱりまだダメかな、とか。(^_^;)
          僕が最優秀を獲ったいくつかの作品で、選者に対する挑戦状のつもりで出してみたものもあります。「牧歌聞く朝の丘」は、投稿段階において、作品に取り入れた「試み」が理解されれば最優秀の可能性が高いだろうし、分かってもらえなければ入選すらしないだろうと。同じ選者を選んで出し続ける雑誌フォトコンの価値というのはブレない価値観を持った選者を基準に自分の基準を確かめて修正できることだろうと思います。

          今回、元記事を書こうと思ったキッカケは、誰とは言いませんが、、、とにかく撮れば上手くなる、とテキトーなことを書いている人がいてちょっと頭にきて。確かに撮らなければ上手くならないけれど、それだけで上手くなるわけないだろう、と。ただ撮るだけではなくて、考えながら撮れる人は絶対にそのうち上手くなるのですが、そもそも考えるためには評価基準が必要で、それはどうやって作るものか、最近はちゃんと正直に書いてないよね、という流れから来ました。

          よく「写真が上手くなるテクニック」という感じで、コレだけ「覚えれば」OKみたいな「インスタント」な記事や本を見かけるのですが、、、テクニック自体は間違っていないのだけれど、「コレだけ覚えれば」の部分は少しでも違っていたら応用できないのでダメだろうと。応用するためには、基本を「頭で」よく理解して自分で「ちゃんと」使える段階になり、さらにその類型も含めて数多くの類似パターンを学習しておく、という過程が最初になくては、どれをどのように適用するか判断できないはずなんです。自分の中に基準が確立するまでは、ね。自分が撮る写真に本当に自信がつき、一度、自分の中で、完全に腑に落ちた状態になれば、類型パターンとかそういうのは全く考えなくてもよくなり、自然に一番「おさまりのいい」構図や配色にできます。その段階まで来ると、もう日の丸だとか三分割だとか向きだとか、、、そういう自分の考えを型にはめる「制約」は正直考えなくなります。必要だと思うことをやってみて、それがたまたまそういう類型の一つに近くて、誰かに説明する時に便利だから、そう説明しちゃう、という流れ。でも、自然に写して制約に近い状態になる所まで行くには、最初は多少窮屈でも、まずは類型にはめて撮り続けて、それで自分の感覚と型を完全に一致させてしまう段階を通り越す必要があるのです。これが写真における守破離の「守」をマスターした段階なのです。その先にオリジナリティを追求して新しい流派を作りたければ作ればいいですし、構図や配色に無理にオリジナリティを求めなくても、その人の人生観や世界観自体がオリジナルなハズなのだから、写真で表現されることは自然にオリジナリティのあるものになっていくはずなんです。少なくとも僕はそういうものだと考えています。これだけ写す人がいれば似ているものもあるでしょうが、個展をやるために例えば40点くらいのまとまった作品数でメッセージを表現すれば、どうやったって違うものになるはずなのです。

          話を戻して。そういう「すぐ上手くなりそうな錯覚を起こす」都合のいいことが書いてある記事とか本とかは、読者が嫌う「時間のかかる部分」を正直に書かないので、不誠実だなと。そんなことをマジメに言っちゃう本は売れないものね、、、。そういう本を避ける風潮を生み出している読者側にも責任があるのですが、幸いにも、僕の記事を読んでいる昔からの常連さんは、僕の記事でそういう地道なことをやれということを(時には耳を塞ぎながら)昔からそれを読んできているはずなので、僕がこんなことを書いても、きっと全く違和感を持たないだろうという安心感があります。今回は、ただ、なんとなく分かってもらっていそうなことを明文化してみただけです。だから、読んでいる側も、また言ってるよ、と安心して読んでいるはず(笑)

          「これだけ覚えればOK」ならば、もっと加速度的に上手い人が増えているはず。だからこのコピーは不誠実なんです。全部を言っているわけではない。逆に「才能がなければNG」というのも嘘。だったらこんなにたくさんの上手い人がいるわけないんです。誰でもそこまではイケるんですよ。

          ちゃんと考えてみれば分かるのですが、自分がいつまで経っても「永遠の初心者」と気付くのは何年も、時には10年以上も経ってから。それでもやっぱり変わらず上手く写せたらいいな、と言っている人が多いわけです。だったら、最初の一年を最初から上手くなるのに使ったら、あとの何年、あるいは10年以上は上手くなってからの時間だから、もっと有意義に使えるのに、もったいないよね、と思うのです。もっと、長期的な視点で考えてみれば、どちらがより近道なのかは、歴然としています。

          ちなみに、誤解しているかもしれませんが、その一年は苦行でもなんでもなくて。好きな写真を時間を忘れて穴が空くほど見るのですから、正直、楽しい時間でした。そろそろいいかな、と、やらなくなった頃はもう見るものがなくて寂しく感じたものです。そんなわけで、復習好きな僕は、教科書もダメもとで買い続けていましたが、その段階では、すでにあまり得るものはなく、お金と時間を無駄にした気がするので、この段階ではもう「同じ流派」のことは置いておき、「破」を実現するために、他流派の取り込みを図ることに専念した方が良いと思います。

          最後に。
          過去の選択の繰り返しの末に辿り付いたのが現在。
          現在とこれからの選択の繰り返しの末に辿り付くのが未来。
          今とは違う未来にしたいのであれば、まずは、今、目の前にある選択を、今までとは違う方法で選ぶ必要があるのではないかというのが僕の考えです、
          と背中を押しておきます。

          以上でコメント(笑)を終わります。

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          写真の上達方法ー客観基準を自分の中に育てる
          category: 写真のコラム
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            芸事の上達法に「守破離」という言葉があります。
            これは、ある芸事に取り組む時に、もっとも効率が良いとされる昔からの「学ぶ技術」です。

            守:師匠の教えを忠実に守り、完全に模倣して自分のものにする段階
            破:師匠以外の人の考えを取り入れる段階
            離:自分のオリジナルを生み出す段階

            写真において、この考えを実践すると、最初の「守」で取り組むべきことは、
            1.上手な写真の客観基準を自分の中に作る
            2.客観基準に従った作品を作る
            ということかな、と思います。

            今日は、この最初の「客観基準を作ろうよ」という話です。

            客観基準とは「他人だったら、こういうものを上手いと言うよね」というイメージを自分の中に作ることです。
            これができるようになると、自分が撮った写真のどういう所が良くて、どういう所が悪いのか、客観的に判断できるようになります。

            そうすると、自分が撮った写真の一枚一枚に対して、ここを次は改善しよう、とか。ここは良かったので次もやろう、とか。そういうことを自分で考えて行動を選択できるようになります。この段階まで来られる人は、遅かれ早かれ、まずフォトコンには入選できる人です。僕にちょっと何か言われて(あるいはブログを読んで)、ああそうか、と自分の行動を直せちゃう人は、だいたい、このくらいまでは最低でも到達できる素地を持っています。守だけでも十分フォトコンには通ります。

            で、その客観基準を得るための方法ですがすごくシンプルです。

            「良質な作品をたくさん見ること」

            以上。

            、、、まぁ、これだとコラムにならないので(笑)、もう少し説明すると。

            「たくさん」というのがどのくらいかと言うと、1万枚くらいひたすら見続けることです。幸いにも仕事や性格として分析能力が発達している人の場合、数千枚でも済むこともあります。ただ漠然と見ていてもある程度上手くなっていくと思うのですが、僕がしたことは、「写真の教科書」(本の名前じゃありません、そうした教科書の類ということね)で得た知識を元に、そこに表現されている構図や意味はどうして、こうしているのだろうか、という分析を「全て」の写真にしただけです。想像してください。1万枚の写真に対して「どうしてこの写真は三分割法を少しずらして表現しているのか」「どうしてこの写真にはこんな余計に思えるものが存在するのか」「どうしてこの写真は華やかで元気なイメージに見えるのか」「どうして、、、」。そんなことを見た写真全部に対して、一つ一つ時間をかけて問いかけてみたのです。それを繰り返した結果、芸術と無縁だった僕にさえ、どんな写真が「良い」写真と「言われている」のか、その客観基準を得ることができました。
            ただ、間違ってはいけないのは、ここで得られる客観は「平均的な」解釈によるもの。あまりにも突き抜けている人の作品を理解するには、実はこれでは足りませんが、、、それは今回の記事の主眼ではないので。とはいえ、自分の理解を超えた作品に対して、理解しようと努力することで培われることもありますので諦めないで見続けること、そして理解しようとすることが大事です。

            そして「良質」とは、トッププロ、もしくはトップアマの「作品レベル」の写真、という限定が付きます。トップがどのくらいかは、あなたのレベルによるので何とも言えませんが、プロの場合、「少なくとも」5冊以上の写真集を出している、というのを条件にしちゃっていいかな、と思います。できれば10冊。そして、トップアマというのも、写真集こそないですが、実に上手くて参考にすべき材料が多いのです。これはフォトコンや展示会でしか見ることができないので、そうした雑誌なり、メーカー配布の結果を参照するしかないのですが。写真集よりも安価に手に入れることができるので、ぜひそうしたものも参考にしていただきたいと思います。アマでも中身はプロ以上という人が結構いるのが、他の業界ではあまりみかけない現象の一つ。風景写真はね~、プロで食べていくのが難しいんですよね~。デジカメのおかげで単価も下がってさらにきつくなっているそうですし。だからある程度名前が売れてきたプロでもカメラ雑誌に記事を書いたり撮影ツアーをやったりと副業に精を出しているので。そういう意味ではアマの方が時間とお金の制約は少なかったりするので、アマのまま続ける人が多いのでしょうね。

            話を戻すと。僕の場合は写真を始める前から風景写真を志してしまったので、風景写真家しか参考にしないように思われるかもしれません。実際に前田真三の写真集は全巻持っていますし、海外も含めて、他のいくらかの風景写真家の写真集も持っています。ここまでは守の段階の話。
            ただ、学習の過程では、風景に限らず、ポートレートやコマーシャルフォトなど他のジャンルも積極的に勉強してきましたし、ルノアールや東山魁夷など画集を買って勉強もしてみました。そうしたクロスジャンルの学習を通じて分かったことは、ジャンルに限らず、ある一定レベル以上の作品とは、思想の差違はあるにしても、技術的なこと、精神的なこと、はいずれもジャンルとは無関係に共通している部分がある、ということです。技術的なことを言えば、ポートレートにおけるライティングの概念は風景写真においても取り入れるべきですし、コマーシャルフォトの「作られた」背景は、そうしたものを志すように風景写真でも背景を選ぶべき時はあります。あるいは絵画的な表現、写真的な表現、そうした境目を自由に行き来するための目を養うこともできました。芸術分野では歴史の浅い写真だけにこだわっていないで、もっと長い歴史を持つ絵画などの芸術の歴史一般を一度学んでみることは無駄ではありません。参考にすべき考え方がそこにはいくつも発見できます。今振り返ってみれば、これは破の段階に相当する行為だったのだろうと思います。

            また脱線しましたが、いずれにせよ、そうした学習を通じて自分の写真を「客観的に見る目」を持つことが上達には欠かせないと思うのです。

            以前に、本田宗一郎氏の創業当時のお弟子筋にあたる人のセミナーを受けてみたことがあります。
            当然、技術屋としての心得についてのセミナーだったのですが、講師の名前は忘れても忘れられないことが一つ。
            「型破りと形無しの違い」についての言葉。

            曰く。
            型破りとは、ある型を踏襲してそこから新しい型を作り出すこと。
            形無しとは、型を学んでいない者が適当にやっている状態。

            中には形無しのまま突き抜けてしまい、世の中に認められてしまう人もいます。どんな分野でも創始者というのはそういう人です。ですが、それは多くの人にとっての近道とはならないのです。一ジャンルを築いた画家、例えばピカソだって、最初は普通に上手い絵画を描いていたことを思い起こしていただきたいと思うのです。

            今は、本やインターネットで色々調べられる環境があることで、僕のように特定の師匠がいなくてもある程度まで自分でどうにかできてしまいます。いい時代、いい国に生まれたことに感謝。

            最後に、僕が参考にすべきと思う本をごく一部ですがご紹介しておきます。これはごく一部で、見た、あるいは読んでみた本の1/30くらいかな、、、。絶版になっていて入手できない本や海外の店頭で買ってきたものはamazonでも扱っていなくて紹介できないものが多くなってきましたし。写真の教科書はたくさんあって、どれでも似たようなものなので、説明の上手下手のムラをならすために、何冊か、amazonのレビューを参考に買って読んでみれば新しくても古くても何でも良いです。後はどれだけトップクラスの芸術に触れて、その学習したことを元に分析できるか次第。写真集を買う場合は、自分が気にいっている写真作家のものを優先して構いません。ただ、できるだけ多くの良質な作品に触れて欲しいと思うのです。多分、一人、二人では作品数が足りないことになるでしょう。







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